音楽を語るのは
音楽を語り合うことは、楽しいことですね。
でも、難しい面もあると思います。特に未来を語る時に感じます。
例えば「青い空」と言って、全く同じ空を想像できる人はいないと思います。
同じ言葉を用いていても、お互いの経験値等で別の物を思い描いて会話しています。
もし、私が見たり聞いたり経験していないことであれば、相手の言葉から、自分の想像力を掻き立ててイメージしながら聞く他ない…ということになります。
もはやファンタジーの世界☆
もし偏った先入観、頑なな思い込みがあれば、その想像する力さえ働きません。
言葉が空回りしていきます。
でも、音楽そのものを、目と耳と心で「一緒に体験」できれば、共通の言葉…言葉を越えたモノ…を一つ手に入れられる気がするのです。
だから、できるだけ多くの体験を共有して、少しずつ通じる言葉を増やしたい、とも思います。
また、私自身、多くの皆さんと共有できるための多くの言葉、音楽の引き出しを自分のものにしたい、とも思います。
自分を飾る言葉をどんなに並べ立てたって、中身がなければしょうがなし。
誰か偉い人の言葉を借りたり、難しい専門用語でまくし立てても、音楽の奥にある喜びを心から共有することはできないと思います。
色んなものを取っ払って、心から音楽の喜びを体験したい。
関わってくださる人皆と一緒に。
それが私のやりたいことなのだと思います。
話変わりますが。
先日の語学試験が面白かったので☆
会話の試験は、与えられた単語(キーワード)を使って、想像力を駆使し、相手と会話を展開させていくというものでした。試験官曰く「ファンタジー☆」。
お互いが自由に、自分自身が使える言葉で会話を重ねていきます。
例え、何か言葉を間違えていても、そのことで止められることも、直されることもありません。
受験者二人が、意思の疎通がしあえることが大事。
そこには最後に合わせるべき「正解」「正解例」も用意されていません。
(試験はぐだぐだでしたが、このアイディアはとても好きで、楽しかったです。)
音楽活動もそうだなぁ~とすごく思ったのですよね。
(かなり強引な持ってき方ですか…笑)
「正しい答え」に当てはめることって不可能だと思うのです。
というか、どれも正しいというか。
音楽の良しあし、活動の良しあしを判断しようとするとき、「賞」「肩書」「経歴」を見ることがあります。
でも本当のところ、明瞭な数文字で表し切れるわけがない世界なのですよね。
大事なのは、その数文字に踊らされることなく、自分の目と耳と心で、奏でられる音楽を実際に体験し、感じ、自分で判断することだと思うのです。
誰かの言葉ではなく、自分の心で音楽を感じとること。
もしエラーイセンセイのお勧めや一流の演奏を「退屈」と感じても、それも間違いではないし。
道端で通りすがりのおじさんの鼻歌に惹かれても、子供の他愛ない替え歌に感動しても、間違いではない、ということ。
自分の心の動き、感動に、不正解はないのですよね。
「一見正解っぽい何か」に当てはまらない自分の感情を間違いだと思う必要はない。
と、最近強く思うのです。
音楽って。
たった一つの答えを求める世界じゃないからこそ、自分の五感(第六感まで)を駆使して、感じ、学び、広げ、深め。
どこまでもどこまでも追い求めていけて、喜びや感動の数も種類も大きさも何もかも無数にあるのではないか、と思う今日この頃なのです。
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