いつも何度でも
髪を切ったら、カリメロになったヤギです。こんにちは。
子供の頃の学びは「生きる力」を育むことが目的だそうですが。
その中の音楽の学びについては、何が育まれるのが大事かな~ってよく考えます。
一人一人の心の豊かさ、最終的には世界平和に行きつくのですが(笑)。
そうできるための手段として「基礎力」を育むことはやはり大事だろうと思うんですよね。
私自身の経験では、子供の頃から楽しく歌う習慣はあったものの、リズムや音程を正しく認識し、一人で或いは仲間と楽しく弾き歌うための、底力となるような基礎的な知識や技術の習得、それらが実現できるような音楽体験は長い間後回しになっていたように思います。(最低限聞いたり話したりすることはできるけど、書いたり読んだりする方法がわからなくて、知識に制限がかかり、色々自由が利かない、みたいな)
音符の読み方はもちろん、リズムも音程もよくわからないまま、いきなり、合唱団で、見ず知らずの曲を解読できない楽譜を片手に複数声部で歌うわけですから、難易度マックス。練習に時間がかかるのは当然です。
思い起こせば、中高生時代の練習は、長かったー。
中学時代は、もう、ホント、「忍耐」。立ちっぱなしで長時間練習するから膝の裏はイタイし。
同じ曲を何度も何度も練習するから、飽きるし。
休憩が終わると次の休憩を待ち遠しく思いながら歌っていました(笑)。
本番自体が楽しかったかは記憶がないデス。
(本番前の舞台袖で、指揮者のまねをして、周囲を笑わせていた記憶は鮮明)
本番後はいつも賞を気にしていたかな。
高校時代になると、少し知恵がつきますので、練習は従順にガンバッテ、本番は自由(きまま)に歌うと自分の中で割り切っていたように思います。なぜなら、本番は一瞬で終わるし、先生や先輩に注意されない貴重な時間だから、楽しみたかったんですね。
本番で豹変する団員が存在する可能性を身をもって知っていましたので、自分が前に立つときは、練習自体が楽しくあるようにとだいぶ早くから心に決めていました。
でも最近思うんです。
長時間のキツイ練習をいかに「楽しく」耐え抜くか、ではなく、自分の思考回路がちゃんと機能する範囲内、必要最低限の時間で最大限「音楽を楽しめる」様な工夫をするのは大事だし。基礎、基本をすっ飛ばして、応用編に長時間向き合うよりも、むしろ基礎に立ち戻って、わかる喜び、できる喜びを重ねて行き、応用する力につなげる方が最終的には効率的で、ずっとずっと楽しい。はず。
わかる、できる、奏でる喜び。いつもノビノビ。
音楽の美しさを感じられる心の余裕と広い視野。
う~ん、大人の品格だね~(笑)。
欲しいー。
読めない漢字でいっぱいの本を辞書を引き引き、何度も行きつ戻りつして何年もかけて読むより。
読めるレベルの本をたくさん読んで、理解し、知識を積み上げながら、じわじわと語彙数を増やし、読める本のレベルを上げていく方がいいように思うんですよね~。
難しい漢字が読め、書けても、その意味が深く分からないのでは、なんかちょっと残念かもしれない。
いくつになったって。何度だって。
ステップバックして、学び直したいなと思います。
多少前に進むのが遅くなっても、全く何も知らなかった頃に戻ることはないですし。
先人もこういっております。
「一日一歩。三日で三歩。三歩進んで二歩下がる~」(チーター)
今目の前にある「難しさ」は、実はできることとできないことが複雑に絡み合っていることが多くて。
一つの(まだ)できないことのために、できることさえ見失ってしまうのはもったいない。
少し立ち止まって、ほぐしてみたら、一つ一つは実は小さくて、結構いけちゃったりするんですよね。
好奇心にかられて、新しい楽器に手を出すたびに、さくりとビギナーに戻るわけですが(笑)。
そのことが、歌やアンサンブル、音楽の基本が何かをも考える機会につながって。
折々に基礎に立ち返ることで、以前は気づかなかった(見落としていた)大切な要素に気づくことも多いです。
不安定な土台の上で背伸びしてガンバッテいた頃より、今の方が、音楽がずっと身近で広がりもできて、自由で、楽しかったりするから面白いですね。
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