ロ短調ミサを学びにいきました
昨年2月16日のミニコンを最後に、音楽的にも引きこもり生活を続けてきたヤギですが。どうしても学びたくて、先月末より京都に出かけておりました。
参加したのはこちら↓
「本山秀毅コーラス・ワークショップ2021」~真夏の京都で「ロ短調」に挑む!
コロナ禍の厳しい情勢のなか、主催してくださったコーラス・カンパニー様に心から御礼申し上げます!!
何度か書いていますが。私のオーケストラ付き合唱との出会いは、高校時代です。所属していた音楽部には管弦楽班と合唱班があり、たまに合同演奏をしていました。大学でもメサイアなどの大きな曲を歌う機会には恵まれましたが、その演奏が指揮者としての夢に代わったのは、2007年夏です。2006年留学中、所属合唱団のスイス遠征時にお世話になった、ハンガリー人の指揮者ファルカシュ先生からお誘いいただいて、大規模な合唱曲の指揮を学ぶ機会を得ました。
音楽基礎教育を学び直しながら合唱指揮を学んでいた当時の私には、プールでの泳ぎ方もおぼつかないのに大海原に放り出されたような気分でした。しかし、ビギナーズラックのような形で、本番で大変よい音楽体験をしたこともあり、こういう世界に合唱指揮者として関わりたいと思うようになります。
あれから14年(ひぃ)。今回のワークショップ参加は、自分の成長を実感すると同時に、今の自分に足りないものなど明確になった3日間でした。
ところで。私のブログには備忘録?シリーズが存在するのですが、前回の備忘録は4年前のハンガリーでの学びです。その後、2019年にもハンガリーまで音楽教育セミナー受講に行っているのですが、備忘録書いてないんですね(笑)。2年前は子供の音楽教育に強く興味を持ち始めた時で、合唱指揮者としてよりも、音楽基礎教育に携わる者として音楽を見ていたからでしょうね。
コロナを機に自分の音楽人生を見直すことになりました。やぎらぼを始めてから閉じていた合唱指揮者としてのホームページをこの春再開したのも、自分が信じる「合唱指揮者」という存在をしっかり目指していきたいと思い直したからです。
「今も合唱指揮者では???」「合唱団で指揮を振っているでしょう???」という突っ込みをありがたく頂戴しておきます(笑)。
勉強には終わりがない(by シューマン)ように、音楽を実現する存在としての合唱指揮者の学びも当然終わりがなく、精進の日々は永遠に続くのでございます。
4年前のオラトリオアカデミーでは、修了演奏自体は大変うまくいったものの、そこに至るまでの過程がとてもよくなくて…。個人の準備のあり様とその礎となる意識が大きく間違っていたと気づかされて、劇凹みしました。いつまでもビギナーズラックの成功体験に酔いしれていた自分が恥ずかしくて恥ずかしくて…。当時のブログに詳細を綴っていないのはそのためです。今でもあの時のことを思い出すと顔から火が出そう。
ご縁があり、オーケストラ指揮を学ぶ機会も得たことで、合唱どうこうではなく、「指揮者は指揮者である」と心に刻みました。
今回は、自分一人ではなかなか紐解けない大作曲家バッハの、しかもロ短調ミサという大曲(前半だけなのに大曲!!)を、合唱とオケという恵まれた環境でその道の先生から学べることの魅力が大きく、さらに、この4年間で自分の積み上げてきたものがどういう結果になるか、も、自分自身のとても興味のあるポイントでした。
本山秀毅先生には今回初めてお世話になりましたが、実は数年前仙台で開催されたコーラスワークショップの先生の講座を受講しています。バッハのJesu, meine Freudeが課題曲でしたでしょうか。その時、楽譜を超えた世界、私に聴こえず見えないものが、先生には聴こえてみえているのだ、と思ったことを今でもはっきり覚えています。その先生に手ほどきを受けられることも楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。
細かいことを書き始めるときりがありませんので、あとは、備忘録として自分なりのポイントをメモ書きしておきます。
- 4年前「よりは」よかったこと
- 読譜・分析等の事前準備(歌・器楽全パートを他パートと弾き歌っておくことを含む←読譜には参考音源を使わない)
- 少なくとも一つの合唱パートを歌詞付きでしっかり歌えるようにしておくこと(Sop2で準備しましたが、本番ではSop1も歌えたのでなかなかよし)
- やろうと思っていて間に合わなかったこと
- 指揮動画を撮って自力である程度修正しておくこと
- バッハも用いたといわれる六音音階でも譜読みしてみること
- 修辞学的な分析(そもそも修辞学そのものが未習得…)
- 足りなかったもの、欠けていたもの
- 音色やフレージングの精査(出てくる音を楽しんで終わってしまった)
- 先人たちの演奏から学ぶこと(音源比較、共通点・相違点の整理→自分はどうするかをまとめること)
- 音楽イメージの伝達可能な言語化とそれを実現するためのリハーサルの準備(イメージを具現化するテクニカルな声掛けの準備が皆無だったり、曲の自分なりのイメージがよく固まっていなかった曲が本番で担当になって青ざめたり…)
- 短期間で音楽を音楽としてよりよく響かせるための一員であるという意識と覚悟
- その他気づいたこと
- 合唱指揮者が棒を持つ意味
- 棒の長さは編成の大きさで選ぶこと(今思えば当然のことなのですが、今回持つか持たないかだけに意識がいっていました…)
- 音楽の勉強や体験不足を置かれた環境のせいにしないこと
- でも成長に必要なよりよい音楽環境はもっと積極的に求めていくこと
- 大曲を手掛けたいなら余計に、日ごろから「音楽基礎力」を大いに高めておくこと
おそらく、あとからもっとザクザク出てくると思いますが、今のところはこんな感じです。
大いに見直すべきと思ったのは、こういう形の勉強会における自分の関わり方です。指揮や音楽を「習いに行く」という甘えた姿勢が、自分のリハーサルの時にもろに出てしまったのが我ながら残念です。一受講生だとしても、その時出来得るよりよい音楽の実現に、奏者の一員として積極的に関わるという姿勢、意識、覚悟がないと、批判的な耳が閉じてしまい、大切な、合唱指揮者としての役目を果たせないし、より深く学ぶチャンスを逃してしまう。
そして日ごろの環境も大事。こういう音楽世界が、数年に1度巡って来る「夢の世界」になってしまうと、大人数の合唱の音のうねりやオケ・ソリストの極上の音楽に、喜びや感動の方が上回ってふわふわしてしまって(笑)、愛好者としてにやにや楽しんでしまう。もっと身近でシビアな現実世界、実現すべき「目標」に据えて、そこに向かってしっかりと準備を重ねていくことが大事だと思いました。
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